「お帰り。ジャック、君は天才だよ」 実地訓練から帰って来たジャックを出迎えたのは研究所の最高責任者だった。 白衣にゴーグル…真意は知らないが、彼はどうやら目が悪いらしい。 ジャックはガスマスクを外しながら彼を無言で見上げた。 建物の中の空気は清浄だ。 特に、政府内の建物には空気清浄機が設けられている。 ジャックは大きく息を吸った。 綺麗な空気が気持ちを安定させてくれる。 先程までの興奮が冷めていく感覚が分かった。 建物の外でジャックは決してガスマスクを外さない…というよりも外せない。 幼い頃から言い聞かせられていたという事もあるが、ジャックは恐かった。 公害により、発病した人たちをその目で見てきたからだ。 幼い頃から気にかけてきた事でもあるが、この施設に来てからそれは更に酷くなった。 ガスマスク無しでは外で息をする事もままならない。 …例え、それが『カナンの外』だったとしても。 異常なまでに執着する姿は『病気』のようなものだ。 ぐしゃぐしゃになった髪を掻き回す。 「精神力・攻撃力…どれも申し分ない。特にチェックメイト時の瞬発的な判断力は素晴らしかったね」 背の高い研究者の言葉を話半分に聞きながら視線を外す。 硝子張りの壁に自分の姿が映っているのが見えた。 …全身、返り血で汚れた 自分の姿。 「………ホリック博士」 「なんだね?」 背の高いゴーグルの最高責任者…『ホリック博士』は満足そうに頷くと、ジャックは自分のシャツを引っ張った。 「シャワー浴びてもいいですか」 褒められる事がちっとも嬉しくない。 例えどんなに褒められようと、それは『人を殺した事』に対してだ。 この施設に来て2年が過ぎた。 始めのうちは机に座って普通に勉強をしたり、工場内の研修、ちょっとした能力の実験…そんなものだった。 そうして時間が過ぎ、工場内勤務になるのか、研究室勤務になるのか…そんな事を考えていた。 しかし、現実はそう甘くはなかった。 決して口外されることはなかったが、研究所内では能力を持った子供達に実地訓練… 戦地に送り出し、その能力データを採取される事が増えた。 ジャックは望んだ訳ではないが暗殺能力に長け、研究所の人間は大層喜んでいるようだ。 ジャック、君は天才だ もう何百回と聞かされた 言葉。 初めて褒められたのは戦地でターゲットである軍の中心である人間を片っ端から焼き払った時だっただろうか。 あの頃、まだ力の加減が分からずにジャックを中心とした一帯が一瞬にして焼け焦げた。 素晴らしい、ジャック、君は天才だ そう、言われた。 喜ぶどころかジャックは焦げた人間の姿を思い出しその場で吐いてしまった。だが、ホリックは笑っていた。 大丈夫、すぐに馴れてしまうよ 降り注ぐシャワーで排水溝へ流れていく赤く染まった水をジャックはぼうっと見つめていた。 こうしている間に思い出す事は、そんな昔話や、戦地のあの妙に昂ぶった空気… 相手を仕留めた時の感覚… 面白い事など何一つ無い。 ホリックの言う通り、人を殺す事にはすぐに慣れてしまった。 何度も戦地へ駆り出され、人を殺めるうちにどうすれば一撃で殺すことが出来るのか… どうすれば死なない程度に相手を苦しめることができるのか…感覚が覚えている。 ジャックは緩く首を振る。 嫌なものは全て頭の中から消し、空っぽにしてしまわないと 気が狂いそうだ シャワーのコックを捻る。 少しずつ、水の勢いが死んでいく。 返り血はすっかり流れた。 髪に張り付いた水分を両手で払い、シャワー室から出る。 鏡に映る姿は先程よりもさっぱりしたが、目が殆ど生気を失っている感じがした。 大して乾かさずに用意された服を身に纏い、自室へ戻ろうと足を寮へ向かわせる。 ホリックの研究室へ寄るように言われていたような気がするが、今日はもう休みたかった。 こういう場合、ホリックは命令を無視した事を咎めたりしないから楽だ。 研究所と寮を繋ぐ長い廊下を抜ける。 部屋は現在、二人部屋。 同期のエレクトロと同室だ。 彼は元々、工場勤務を希望しているようだったが、結局は研究の対象になっている。 幼い頃から足が悪い為、現地に送られる事は無いが テレパスに特化している関係で現地の様子は良く知っているようだ。 エレクトロも作戦の一端を握る役割と言う訳である。 部屋のドアをノックすると、程なくして鍵の開く音が聞こえた。 「おかえりなさい、お疲れ様」 ドアを開け、ひょっこりと顔を覗かせるエレクトロは笑顔でジャックを迎える。 「早く入って、見て欲しいものがあるんだ」 エレクトロはまだぼうっとしているジャックの手を取ると部屋の中へ急かした。 部屋の中には二段ベッドが二つにロッカー、本棚にテーブルに椅子が設えてある。 それ以外、余計なものは一切無い。 この施設に入る時、私物を持ち込むことは特に禁止されていなかったが ジャックは特に持ってくるものが無かった。 エレクトロはなにやら本を沢山持ち込んでいるようだったが、邪魔になるようなものはなかった。 実はこの部屋は少し前まで四人部屋だった。 元々[IXION]第一期生であるジャックとエレクトロの二人部屋だったのだが 翌年には第二期生である二人が同室になった。 しかし、彼らはある理由によっていなくなってしまった。 再び二人部屋になった時、エレクトロが部屋を見渡して 「なんだかまた広くなっちゃった…寂しいね」と言ったことをよく憶えている。 ジャックは、何も言えなかった。 手を引かれ、部屋の中へ入ると窓際へ設えられているテーブルの上に植木鉢が置かれていた。 「ねえ、見て。この鉢の真ん中、ね?」 二人で覗き込んだ植木鉢の中心に、良く見なければ分からないくらいに少しだけ 緑色の芽が頭を覗かせているのが確認できる。 土を掻き分け、押し除けて…暗い土の中から光を目指し…この芽はやっと生まれたのだろう。 「…ああ、すごいな…」 「そうでしょ?やっと芽を出したんだ」 エレクトロはにこにことジャックの顔を見た。 全てを…知っているだろうに… 彼はジャックが帰ると必ず笑顔で迎えてくれる。 ジャックがどんな事をし、どんな気持ちになり、どんなに心が荒れていたとしても… リーディング能力に長けたエレクトロには、ジャックの心の状態がダイレクトに伝わっている筈なのだ。 人の心は強い思いがあればあるほど、信号を強く発するものらしい。 それら全てを分かっている上で、エレクトロは笑ってくれていた。 その笑顔に、どんなに救われた事か… 鉢の真ん中に控えめに出した芽は、まるで希望の芽の様な気がした。 もしかすると、こんな環境の悪い土地で花を咲かせる前に枯れてしまうかもしれない。 けれど、この芽がやがて花を咲かせた時にエレクトロはどんな笑顔で喜ぶのだろう。 それを考えると、守りたくなる。 ジャックは、無意識の内にエレクトロを抱き締めた。 「…ぅわ…ッ」 足の弱いエレクトロがバランスを崩し、そのまま机の隣にあるベッドに倒れこむ。 「…ジャック…?」 ベッドに倒れこんだまま、黙ってジャックはエレクトロを抱き締め続けた。 抱え込んだ感情は、どんな形で現れるか分からない。 それを抑え続ける事などどんな人間にだって不可能なのだ。 どこかで均衡を崩すことにより、均衡を保つ。 バランスを保とうとする行為自体が、バランスを崩す事に繋がるということにまだ誰も気付けていない。 それが人間の業であるという事にも。 to be next stage |